老舗風土記

 

老舗風土記について

老舗風土記について
 
平成2年2月20日から24日までの5回に渡り、もりたなるお氏の取材、執筆、挿画によって、産経新聞の人気コラム「老舗風土記」に弊社の記事が連載されました。
 
もりたなるお氏
 ◇略歴◇
1926年東京生まれ。
二科賞及び二科漫画賞受賞。
1974年「頂」で第23回小説現代新人賞、
1980年「真贋の構図」で第19回オール読物推理新人賞受賞。
「真贋の構図」「画壇の月」「無名の盾」「大空襲」「銃殺」で5回の直木賞候補。
1993年「山を貫く」で第12回新田次郎賞受賞。
 
フォーム
 
第1回 女子学生がお客さん
学生服の専門店「パリス」は、山手線巣鴨駅近くにある。駅を降りて白山通りを渡って右に行く。とげぬき地蔵方向である。パリスは右に歩いてすぐだ。駅前からでも看板は見える。女子学生服が展示された店内に、女子高校生のお客さんがいて、女子社員が注文を受けていた。パリスは女子学生服が専門の店である。特別な注文以外は、専ら女子学生服を販売する。特別注文とは、たとえば大きなイベントなどで、関係者が着るユニフォームの類である。ミュンヘンオリンピックの選手団のユニフォームは、パリスが注文を受けて製造した。学生服は制服であり、ユニフォームも制服の一種であるから、パリスに注文があったのだろう。
  入学シーズンをひかえて、学生服業者は席の温まる暇もない忙しさである。パリスは東京を中心に、埼玉、神奈川にある二十五校から指定を受けていて、営業基盤はゆるぎない。長い間に培われた“相互信頼関係”がつくりあげた基盤であろう。二代目である当主(齊田晴一)のモットーのひとつに“アフターサービスの徹底”がある。一年間は修理無料である。特に中学生は育ち盛りだから、半年もたつと、服が合わなくなることが多い。そうしたとき、無料で寸法直しをする。そのための係員がいて、指定各校をきめ細かに巡回している。
  パリスの創業は、大正十五年である。初代が現在地に店を開いた。初代齊田吉朗は、秋田県五城目の出身で、上京して銀座の婦人こども服店「パリス」に勤めた。当時の男子店員の目標は、暖簾分け独立である。齊田吉朗の独立に際して、建言をしたのは妻方の伯父であるというから、銀座パリスに働いていたとき、初代は既に所帯を持っていたことになる。
  妻方の伯父曰く。
 「洋服店をやるなら、学生服の専門店がよい。婦人こども服店で勉強した腕を生かして、女生徒用に絞るべし」
  大正の終わりから昭和の初期にかけて、女子学生の制服にセーラー服が普及していた。初代は勤めていた店の名をもらい、学生服店「パリス」を開店した。既に六十年がたつ。
 
第2回 女学生が先か水兵が先か
パリス初代の齊田吉朗が、巣鴨の現在地に、女子学生服専門店を開業した大正十五年当時、制服にセーラー服が普及流行したことは、前回触れた。セーラー服は文字どおり、水兵さんの服である。セーラー・ズボンということばもあり、これは裾が喇叭(ラッパ)状に開いたズボンである。セーラー服というのは、四角巾の襟を後ろに背負う形の上衣と、喇叭ズボンの対を総称すると思うが、セーラー服と一般に呼ぶときは。ズボンは除外されるようである。
  女子学生のセーラー服は、水兵さんの上衣から流行したものらしい。後述するが、男子学生の詰襟服も、原型は軍服のようである。
  水兵や船員が、四角巾を背負う形の襟をつけるのは、それを耳の後ろに立てて、海上での通話が、風に飛ばされるのを防ぐためといわれる。
  わたしは帝国海軍最後の現役兵であるが。海兵団に入ってセーラー服を着せられたとき、実に嫌な気がしたのである。陸軍の制服と比べて、凛々しくないのだ。勇ましく思えない主な原因は背なかでピラつくセーラー襟(そういうことばがあるかどうか?)にあった。本来は違うのだけれど、あれは、女学生の服から流用した錯覚を持ったのである。
  ~煙も見えず雲もなく……とうたい出す“勇敢なる水兵”という軍歌があって、セーラー服を着せられて、軍歌演習をやっても、わたしは少しも勇敢にはなれなかった。あれは可愛いお嬢さんが着るのがいちばんいいと、いまも思う。昔は学芸会で、セーラー服のお嬢さんが“カモメの水兵さん”をよく踊ったが、実にぴったりしていてよかったと思う。
  学校の制服すなわち学生服は、軍服を規範として採用されたもののようだ。
  軍服の洋服(西洋式服装)化は、明治三年の太政官布告によって制度化された。陸軍はフランス軍隊を模し、海軍はイギリス軍隊を擬して、それぞれ軍服を制定した。
  その軍服にならって制服を決めた日本最初の学校は、学習院である。明治十二年のことだ。海軍士官型のもので、水兵の着るセーラー服ではない。学生服が軍服に範をとる傾向は、初代文部大臣森有礼の考えが、反映しているともいわれる。学生ならびに学校の雰囲気が、ともすれば放恣(ほうし)に流れて質実勤勉、清新溌剌の空気が衰退しかねない。すべからく軍隊の秩序と精励を見習うべし。それにはまず、服装を整えよ……ということである。しかしこれは、男子学生を主とした考えであり。女子学生を対象とするパリスには、あまり関係のないことであろう。
 
第3回 かっこいい制服もいいが…
すべての制服にいえることだが、それを着ていることで、世間の信用を得ることが可能だ。
  自衛隊員は制服を着、警察官も制服を着用する。JRの社員、バスの運転手、郵便局員、スチュワーデス、企業の女子社員、デパートの店員なども、規定された服装、すなわち制服を着て仕事をする。自衛隊員や警察官は、制服で一目瞭然である。スパイとか泥棒には制服がないから、制服着用者は自分がまともであることを、自ら証明しているわけだ。故サトウハチローさんは、東京美術学校(芸大)の制服制帽を手に入れて、上野公園を徘徊したそうだ。美校の学生だった小野佐世男さんが、思い出ばなしのなかで書いているから嘘ではないだろう。サトウハチローさんの狙いは、画学生を装って、芸術家に弱い女性と、緊密な関係を持とうということ。可成りの打率を上げたらしい。そういうことをやっては絶対にいけないが、学生服という制服の、信用度をはかるエピソードである。男子学生の場合、学校制服とセットの形で学帽がある。大学絵師が希少であったころ、大学生は着物のときも、誇らしげに角帽を頭にのせて歩いた。「浴衣で銭湯へ出かける角帽(大学生の別称)君、必ず角帽をかぶっていき、湯舟につかるときも、帽子は脱がない云々」
  といった話が、雑誌「キング」のゴシップ欄に出ていたのを、読んだ覚えがある。
  帽子や学生服は、誇りの象徴であったのだ。選ばれてあるものの矜持を包んで、学生服は存在した。
  学生服展示会という名称に替わって、“学生服ファッションショー”が出現した。学校経営は、いまや風俗営業に等しい……と説明する人もいるくらいで、教育機関は多極化細分化した。乱立した。学生、生徒の確保が、教育理念に先行せざるを得ない現状を予知して学校の理事者は頭を悩ます。どうすれば、入学希望者を集めることができるだろうかと思い悩む。そこへ耳打ちする人が現れる。「カッコいい制服に替えることです。ヤングはファッションに敏感ですからね」
  矜持を内包すべき学生服は、見栄えに力点を置くあまり、教育理念が、置き去りにされはしないだろうか。
  学生服の「パリス」は、よりよい教育環境、より高い教育効果、建学の精神と伝統の尊重をモットーに、教育に貢献できる制服づくりに、これからも全力投球するという。経営方針に、バランス感覚の良さを、見ることができる。
 
第4回 昭和初期、セーラー服定着
戦前のパリスに勤め、戦後に独立し、製縫工場を経営している芳賀運一の話によると、当時、女子学生の制服は、一軒一軒学生の家庭に届けたそうである。女子学生の数も少ない時代だったから、そうしたことが可能だったのであろう。いまは便利な宅配便があるし、校舎の一部で展示を兼ねた出張販売ができる。商品販売が、大量迅速になる前、芳賀運一店員はある日、声楽家の徳山環邸へ、お嬢さんの制服を届けた。製品を持って「隣組」の歌を小声でうたって、徳山邸に向かった。
  ~とんとんとんからりと隣組
    格子を開ければ顔なじみ
  という歌は、徳山環がうたって、日本中に広まっていた。顔なじみというわけではなかったが、応接間に通され試着という段どりである。着てもらうと大きめだった。お嬢さんは気に入らない様子である。そこへお父さんの徳山環が様子を見に現れた。言下に作り直しをいわれると思ったら、逆だった。
  「おう、ゆったりしていて、いいではないか。似合うよ」
  父親のひとことで、無事納品。声量豊かな声楽家だけあって、気持ちも大きかったようである。
  女子学生は最初着物だった。日本髪を結い、和服の着流しである。そのうちに男子用の袴をはくようになる。なにやら女壮士風のいでたちである。女子の美徳たる淑徳に欠けるというので、紫の行燈袴(マチのない袋状の袴(に改良されもした。これらは学生服とはいわず、女子学生風俗と呼ばれたのである。明治十年代の半ばころから、生活の洋風化が盛んになった。風俗を西欧なみにして、先進国との差をつめようという、政府の指導によるものであった。鹿鳴館と華族たちの洋装が、その代表である。政策のファッション化は間もなく化けの皮がはげて、鹿鳴館の灯は消えるが、女子学生服はその影響を受けた。着物から洋服への転換が行われたのである。明治十八年に、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が、制服を西洋服とすることを規定したのを皮切りに、つづいて華族女学校(女子学習院)が、洋服規定をつくって、和服に袴、革の靴という女子学生風俗を転換した。東京女子師範学校や。華族学校が規定した学生服は、鹿鳴館の夜会服(イブニングドレス)そっくりである。こした伯爵夫人と見紛う華麗優美な制服が、いくたびの変遷をへて、典雅で清楚な女子学生服に定着するのは、昭和の初期である。セーラー服がその代表で、パリス創業と時期を同じくする。
 
第5回 永遠のファッション
毎月四日は、巣鴨の「とげぬき地蔵」の縁日で、巣鴨駅で下車する参詣人が、パリスの店の前を帯状になって往還する。学生服専門店は、他の衣料品と違って、顧客が特定されるので、日常、一般大衆の念頭からは消えている。学生服店と接触するのは、限られた一時期である。とげぬき地蔵に参詣する人は、その道すがら、パリスの店頭に飾られた。学校制服を目にして、さまざまな思いを抱くだろう。ことし進学する少女は、新しい学園に思いを馳せて、胸をろきめかし、社会人になった娘さんを持つ母親は、娘さんが入学した日のことなどを回想するだろう。学生服店は特殊なだけに、日常は忘却するが、久し振りで目にすると、思い出や願いは鮮烈に甦る。
  戦前パリスに勤めて、学校制服の技術と知識を完全に習得した人が、独立して製縫工場を経営していることは、先に記した。パリスの強みは、製造をその工場が受け持つことである。受注、生産、納入が、直接軌道を走るように行われるのは、製造がパリスの分身的存在の面をもっているからであろう。
  女子学校制服が、西洋服にはじめて規定されてから(明治十八年・東京女子師範学校)百七年がたつ。その間、さまざまな変化があって、典雅、清楚を形容するものに定着した。活動性や機能性が求められるのはいうまでもないが、女子学校制服の基本となるのは、山桜の風情と、澄み切った青空を飛翔する白鷺の清冽……なんてことをいうと、いまごろオジンがなによ……とそっぽを向かれるだろうかね。
  ともあれ、おしゃれがしたい年頃の女子学生が自由奔放の時代にあって、制服のカッコよさを求めるのは、時の流れであろう。それを時代の要求として、絵師服のモデルチェンジを考える学校が出てくることも、これまた時代相。だが、学校制服のファッション化といっても、それは限界があるだろう。学校には、風俗産業にはとても成り切れない、建学という理念が存在する。建学精神を抜きにして、学校はない。学校という機能は、行き過ぎの風俗に対して、自浄作用を果たすものだ。それでも止まらなければ、正常な体に、ファッション過剰という刺(とげ)を突き刺すようなものであろう。刺さった刺は抜かねばならぬ。学校制服にも、とげぬき地蔵は必要かもしれない。
  学生服を大正十五年から扱って六十五年のパリスは、学校制服を「建学精神と伝統を重んじた永遠のファッション」と表現している。永遠のファッションという言葉には、教育の理念と哲学があると思う。
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